ビジネス書と聞くと、なぜか身構えてしまう。何故か敬遠して読まずにやり過ごしてしまう。 “本を読んだくらいで、実生活ですぐに役立つような知識が身につくと考えるのは浅はかだ”。そんな思考が自分の読書の機会を奪ってきたのかもしれない。

夏目漱石の「門」では主人公が歯医者の待合室で、当時の自己啓発本、ないしはビジネス書とも言える"成功"という本を見かける場面があるらしい。インテリ層の主人公は最初のページにある成功の秘訣の箇条書きを2つだけ読んで、「非常に縁の遠いもの」として雑誌を置いてしまう。


自分を二つの内どちらかに無理やり分類するならば、おそらくインテリ層とか呼ばれる方に入れられてしまうだろう。大学を修了してしまったからには、自分は違いますというのは謙虚ではなく詐称になる。教養があるかないかと二分するならば、あると言わなければ顰蹙を買うだろう。だが教養とは、一種の呪いだったのかもしれない。

昔から本はある程度読んできた。中学生の時に村上春樹の ねじまき鳥クロニクル を読んでからは折に触れて同氏の本を読んできた。小説を始めとして、純文学・哲学書・数学書・技術書など、ある程度のジャンルの本を、恐らく人よりは読んできたと思う。その根底には、田舎から大学に出てきて、相応の教養を身に着けなければいけないという意識があったのかも知れない。


京都でプログラマとして働き始めて1年。「社会に出た後は学歴は全く使い物にならない」というのはそのとおりで、意識することが全く無い (そもそも在学中も学歴の話になる機会など無かったのだが)。職場の同期の出身大学くらいは自己紹介のときに聞いた気がするが、その他の人については話題にすら出ることがない。嬉しいことだ。 大学時代と比べて、引きこもりの場所が家からオフィスになった。社外の人と話す機会は全く無い。他部署の人とすら、ジャンルやレイヤーは違えどエンジニア以外と話すことは全く無いと言ってもよいだろう。コードを書くのは楽しいし、偶に未知の分野に放り込まれるのは面白いし、他人の仕事は興味深い。コンサルや外銀に行った大学の友人と比べればちっぽけな給料かも知れないが、趣味コーディングをする時間は多分にある。


選択することは、自分の未来の選択肢を削ることだとはよく言ったものだ。27年生きた自分に、小学生の時に持っていた「無限の可能性」というものはもう無い。観測された猫のように、そのカタチは既に収束し定まってしまった (猫が生きているのか死んでいるのかどうかは別として)。 犬カフェのオーナーになりたいとか、柴犬とハスキーと猫を1匹ずつ飼いたいという夢は、頑張れば叶えることはできるかもしれない。だが、今から自分は弁護士にはならないだろう。オフェンシブセキュリティエンジニアにはならないだろう。ベンチャー企業を立ち上げることはないだろう。小説家にはなれないだろう。

将来のためになるかも知れないと学んだ大半のことは、直接的に役に立つことは無かった。高校化学のアンモニアの製法も、大学でやった意味のわからない電気回路基礎論も、古本屋で買い漁ったショーペンハウアーも、おそらくこれから使うことはないだろう。 そしてこれから本を読んで身につけるかも知れない知識のほぼ全てが、プログラマという職において直接的に役に立つこともないだろう。哲学書が、明日書くシステムプログラムの質を向上させる事は無い。ガロア理論を使うような場面は今後無いだろうし、歴史を知っても他部署の人と効率的にコミュニケーションを取ることに直接的な影響を及ぼすことは無いだろう。生活に困らないだけの金は貰っており、かつ対人スキルがほぼ必要とされない今の職において、ビジネス書が給料の向上に繋がることは、無い。学生時代によく言われる「将来のため」の「将来」が確定した今、それらを学ぶ必要は、もう無い。

「教養」が実利になることは、おそらくこれから先の自分の人生では、殆ど無くなったのだ。


これは嘆きではない。決して、憂いているわけではない。

もう教養は必要ない。こんなに嬉しいことがあるだろうか。

これからは、「教養」を意識して本を選ぶ必要が無くなったのだ。これまで無意識に避けてきたビジネス書も、下卑た自己啓発本も、詐欺師みたいな芸能人が書いている怪しい本も、今やすべて等しく読むことができるようになった。


俺は西野亮廣の 革命のファンファーレ を読むぞ。俺は堀江貴文の ニッポン社会のほんとの正体 投資とお金と未来 を読むぞ。もう読めるようになったんだよ。ビジネスで役に立つような知識をつけるためではない。明日を生き抜く知識を身につけたいわけでもない。そんな知識は自分の生活で使うことは無い。ただ読みたいから読む。ただ気になったことがあるから読むんだ。実利のためではなく純粋に知りたいから学ぶのが「教養」だって?そんなしょうもないことを言わないでくれ。何が「真の教養」で、何が「浅薄な動機」かなんて話を始めたら、また俺は本を読めなくなってしまう。俺はもう教養は捨てたんだ。これからは読みたい本を読むと決めたんだよ。何の為にもならない読書がやっとできる歳になったんだ。ビジネス書も読むし、心理学も読むし、恋愛指南も読むし、雪江代数も読むし、これからも村上春樹の ノルウェイの森 やセネカの 生の短さについて は繰り返し読むんだよ。

俺はもう、教養を捨てたんだよ。


以上、三宅香帆の なぜ働いていると本が読めなくなるのか の読書レビューでした。


2025.09.09 -